天龍村ホームページロゴ

文字サイズ

背景色

ページ
トップへ

村政情報

天龍村ってこんな村

天龍村は、長野県の南端に位置し、村の南側は愛知県と静岡県に接しています。東西に11.4km、南北に9.9km、面積の9割以上が山林で、村の真ん中を南北に流れる天竜川と、その支流が造るV字渓谷の中に集落が点在する「純山村」です。

天龍村の位置

(役場所在地)

  • 東経 137度51分26秒
  • 北緯 35度16分23秒
  • 標高 308m
  • 面積 109.44km2

yahoo!地図(天龍村

天龍村へのアクセス

JR飯田線利用

名古屋・大阪方面からの場合

JR豊橋駅(特急伊那路号)→平岡駅

所要時間:1時間50分

長野市・東京方面からの場合

JR岡谷駅→飯田駅乗り換え
飯田駅(特急伊那路号)→平岡駅
所要時間:3時間10分

自動車利用

中央道自動車道 名古屋方面からの場合

中央道飯田山本IC→三遠南信自動車道(国道474号)→天龍峡IC→国道151号→阿南町早稲田経由→県道飯田富山佐久間線→天龍村
※天龍峡ICより約40分

中央道自動車道 東京方面からの場合

中央道飯田IC→国道151号→阿南町早稲田経由→県道飯田富山佐久間線→天龍村
※飯田ICより約1時間

一般道 豊橋市(愛知県)からの場合

豊橋市→国道151号→阿南町新野→国道418号→天龍村
約2時間30分

一般道 浜松市(静岡県)からの場合

浜松市→国道257号→新城市長篠→国道151号→阿南町新野→国道418号→天龍村
約2時間50分

~信州に春をつげる村~

天龍村の緯度は35度16分23秒。
これは湘南海岸とほぼ同じ。標高も280m~とそれほど高くなく、県下で最も温暖な地と言われており、一番早く梅や桜が開花します。
毎年、長野県は天龍村から春を迎えます。

天龍村の概況

自然的、歴史的、社会的、経済的諸条件

位置

本村は長野県の南端、愛知・静岡両県に隣接し、東西11.4㎞、南北 9.9㎞の不整形をなし、総面積109.44K㎡、その93%は山岳重畳、起伏のはげしい林野であり、村のほぼ中央を流れる天竜川とこれに注ぐ各支流沿いの両岸と山腹の一部にわずかに耕地が存在する純山村を呈しています。

地勢・地質

地勢は、中央構造線の西側、中部山岳地帯の南端に位置し、本村最高峰の熊伏山(1,654m) 、観音山(1,418.2m)、地蔵峠(1,196.6m) 、そして遠山川、小河内川、早木戸川、虫川が深いV字渓谷をきざみ、海抜 280~ 1,000mの山ふところに集落が点在しています。

地質は、古期花崗岩及び領家変成岩が主体で、後者は縞状片麻岩、片麻岩状石英内緑岩等を母体とした砂質土壌です。

気候

気候は、周囲を 1,000m級の山脈と起伏の多い急傾斜地に囲まれているため、寒暖の差の著しい内陸性を呈するが、年平均気温13.0℃、年間降雨量約 2,000㎜と高温多湿の気候であり、シュロ、ゆず、カシ等暖帯性の植生が特徴的で県下では最も温暖な地帯です。

歴史

本村には縄文中期以降の出土品を数多くみることができます。文献では文和元年(1352年) に武士の土着が明記され、中世の出城跡、神社も伝承されています。近世では江戸幕府の天領として天竜川を利用しての材木の産地の役割を担っていました。

旧平岡村は、徳川時代遠州中泉氏の支配下にあり、幕末には駿府の代官飯島役所の所轄で、いわゆる天領でした。
明治4年の廃藩置県当時は満島村、鶯巣村、長沼松島村と呼ばれ、遠山10ヶ村の連合体を組織していました。翌5年満島村は鶯巣村と合併し平岡村となり、長沼松島村は神原村となりました。
明治17年長沼松島村は神原村より分離して長島村となり、明治22年平岡村と長島村は合併して平岡村となりました。
旧神原村も天領地で、明治4年の廃藩置県当時は長沼松島村、福島村、坂部村、向方村よりなり、遠山10ヶ村の連合体の一部でした。
明治5年遠山10ヶ村の連合体より分離し、長沼松島村、福島村、坂部村、向方村は神原村となったが、明治17年長沼松島村は神原村より分離して長島村となった。
翌18年神原村は旦開村、和合村、売木村と連合村を組織したが、明治22年の町村制施行に際し、その連合体から分離しました。
昭和27年町村合併促進法が公布され、その頃から県の広報活動等による勧奨が盛んに行われるようになりました。
昭和31年2月9日長野県知事より平岡村、神原村の村長、議長宛てに町村合併の勧奨があり、昭和31年9月30日天龍村が誕生し、今日に至っています。

明治末から大正初期にかけて旧王子製紙が遠山川流域を大規模に伐採したことにより、域内の木材活況期を迎え、人口も 4,000人台を数えました。
人と山との深いかかわりの経済的側面を物量的に例証した一時期で、他地域から流入した山林労務者等がこの地域に定着しました。
その後昭和12年三信鉄道(昭18、国鉄飯田線)の開通を迎え、これに伴う工事従事者の流入等で昭和10年には 6,199人の人口となりました。
第二次大戦後当時は、日本最大規模の平岡ダム工事により昭和25年には 8,337人を擁するに至りました。
昭和31年の合併時には平岡ダム工事の終息に伴う人口減少(社会的減)により、 6,452人を数えましたが、その後高度成長時代に入り若年層の都市部への流出が始まり、以来深刻な状況を迎えています。

天龍村の象徴

村名の由来

昭和31年、平岡村と神原村との合併は、当時天竜川を隔てたものとしては下伊那郡下に先駆けてのことでした。
そもそも両村は、古来より天竜川の恩恵を受けて共に発展してきましたが、戦後平岡ダムや佐久間ダムの完成により、かつての天竜川はその清流と激流の響きを全く止め、本然の姿は変わり果ててしまいました。
このため、天竜川の姿をせめても村名に著して永久に留め、天にも昇る龍の勢いで益々産業を盛んにし、新村建設に飛龍の気魄を持って奮起しようとの意を込めて「天龍村」と名付けられました。

村民憲章

天龍村は、美しく豊かな自然に恵まれ、信濃、三河、遠州の国境の村として発展してきました。
わたくしたちは、この村の村民であることに誇りと責任を持ち、理想の郷づくりをめざすため、ここに村民憲章を制定します。

  • 1、自然を大切にし、水と緑と空の美しい村をつくります
  • 1、教育を重んじ、伝統ある文化のかおる村をつくります
  • 1、お互いにいたわりあい、健康で心にやさしい福祉の村をつくります
  • 1、産業を盛んにし、活力ある豊かな村をつくります
  • 1、平和を願い、力をあわせ明るく住みよい村をつくります

平成8年9月30日制定

村章

天龍村の頭文字「て」を山と天竜川に図案化し、内円より村民の和と太陽を示し、太陽のごとく明るい村を表現しています。さらに、全体的な力強さと躍動は、限りない未来への躍進を象徴しています。長年にわたり村のシンボルとして使用されています。

村花 「やまゆり」

昭和56年(1981年)8月制定

ユリ科のなかでもとりわけ大きな花を咲かせ、夏の訪れを感じる村の風物詩です。村内随所に自生しておりますが、近年は有害鳥獣による食害に悩まされており、それを保護する動きもあります。

村木 「しゅろ」

昭和56年(1981年)8月制定

南国を連想する木ですが、当時は天龍村がしゅろの北限であるといわれたようです(種類によってはさらに北の地域でも生育されているようです)。天龍村は長野県最南端にあり、県内の中でも温暖であることを象徴しています。 

村鳥 「ぶっぽうそう」

平成11年(1999年)10月制定

長野県の天然記念物。
夏鳥として毎年5月初旬に、村に渡来します。

新学期が始まると毎年、村の小学生がブッポウソウの巣箱掛けを行っています。そして5月になるとブッポウソウが村に飛来します。役場庁舎屋上にある巣箱にはライブカメラが設置されており、村内ケーブルテレビで飛来から産卵、ヒナが旅立つまでの一部始終を見ることができます。またこの時期は多くの野鳥愛好家がブッポウソウの勇姿を観察しに、村を訪れます。